ヤマハ発動機ジュビロ 三村 勇飛丸選手インタビュー

ヤマハ発動機ジュビロ 三村 勇飛丸選手インタビュー

​​​​​​​- ラグビーとの出会いは何だったのでしょうか?

「ラグビーありきで佐野高校を選んだ訳ではないので、入学した時に、たまたま藤掛先生(現:佐野日本大学高等学校ラグビー部顧問)がいた。これが始まりです。この出会いがなければ、ラグビーをやっていません。

強烈に覚えていますが『何で楕円形のボールを真っ直ぐに回転をかけて投げられるのか。どうして蹴ったボールが回転して遠くまで飛ぶんだろう』と思ったことが始まりなんですよね。たまたまですけど、佐野高校のラグビー部に入部した同期全員がラグビー初心者だったんです。ルールも、パスの仕方もわからない。でも僕にはこれが合っていたと思っています。走り込んで体力がついたとか、ウェイトトレーニングをしてコンタクト力が上がったとか。練習をすればするだけ伸びるのが分かる感じがしました。花園に行くことはできませんでしたが、3年間、仲間と一緒に成長できたことが良かったんだと思います。監督も自由にやらせてくれたので、今考えれば生意気なことも言ったと思いますが、それを受け入れてくれる方だったので続けられたんだと思います。

高校2年の春だったと思うんですが、U-17の関東地区セレクションに集まった世代別の選手と一緒に練習をした時、周りとの差を感じて『もっと練習するぞ』って言った記憶があって、その頃から大学でもラグビーを続けたいと意識するようになったと思います。でも、明治大学への進学はたまたまなんです。出場した関東大会に来ていた明治大学のセレクターの方に声をかけてもらいましたが、僕が明治とか早稲田とかに行けると思っていなかったので、セレクションに行くつもりもなかったんです。当時は関東学院大学に行くつもりでいたので、ラグビーで行けなかったら勉強で入学できるように、個人の学習塾に通っていたんです。塾の先生に明治に行けるわけないからセレクションに行かないって言ったら、行ってこいって怒られて…。結果合格したんです。今でも仲良くしているんですが、もし塾の先生に伝えていなかったら別の人生だったかも知れないですね」

– 高校・大学と節目で何かに導かれているみたいですね。

「いやいや、ヤマハに来るまで全部そんな感じなんです。まず、社会人でラグビーをやる気はなかったんですよ(笑)。普通に就活していたんですがうまくいかなくて…。その頃に春の早明戦が静岡市の草薙運動公園で行われて、スタメンで出場して活躍したんですが、その試合を見たヤマハから声をかけてもらって…。ヤマハには同期の選手が入社することが決まっていたので、僕もヤマハ行きを決めました。そうしたら、藤掛先生とも縁の深い清宮さんが監督としてヤマハに来ることが決まったりと。全部、出会いと運なんです(笑)。ラグビーって、完全にプロの人と社員選手がいて、社員選手は社員として籍を置きながらラグビーをするんです。ヤマハは社員選手が多いチームなので、職場のみんなが応援してくれます。

僕がやっているフランカーというポジションは、当時でいうと身長185センチ、体重100キロ以上っていうのが普通でした。トップリーグのレベルも知らなかったので、続けることはできないだろうな、無理だろうなと感じていたんですよね」

– 身体的な部分以外の魅力を皆さんが感じて、引き寄せてくれたんでしょうか。

「そうかも知れないですね。清宮さんは今いる選手の強みを活かして15人でチームのバランスをとるスタイルなので、ヤマハの選手は1人1人自分の役割を理解して試合に出ています。ボールを持った時のすべての動きをみんながやっているから走ってトライできるんです。1人だけじゃないですからね。何も考えてないでボーッとしている選手はいません」

– ラグビーの魅力って何なのでしょうか?

「色んなポジションがあって、身体が大きければ大きい人の役割があるし、足が速ければ速い人の役割がある。小さくても勇気があれば何でもできるところもあります。仲間のために体を張るっていうメンタリティが他の競技にはない部分だと思うし、激しくプレーをしていても、相手を傷つけようとは思っていないですよ。だから、ルールを守ってしっかり戦った後は『※ノーサイド』という精神があるし、そこが魅力だと思います」

– ホイッスルが鳴った瞬間に気持ちがすぐ切り替わるものなのですか?

「やり切ったっていうことなんじゃないですか。やり切って、出し切って。勝敗は付きますけど素直に讃えるとか」

「あと、中々みんなが知らないのが、ホームとアウェイはありますけど、観客はどこの場所で観戦してもいいんですよ。右はサントリー左はヤマハとか無いんです。観客席もノーサイド。良いプレーにはみんなが『ナイスプレー』って思える。ラグビーワールドカップで観客席を見てもらえれば分かると思います。こういう所もラグビーの魅力かなって思っています」

– ラグビーワールドカップの魅力は何でしょうか?

「あまり知られていないんですけど、4年に1度開催されるスポーツイベントではオリンピック、サッカーワールドカップに並ぶ世界的なスポーツイベントなんです。その大会が日本で開催されることはもうないかも知れません。代表の人たちって色んなものを背負って4年かけて準備をするんです。前回は五郎丸さんとか注目されましたけど今回は…あっ、いた。國學院栃木出身で僕の同期の田村 優。高校最後の花園予選であいつに負けたんですよ。佐野高校対國學院栃木で…栃木県の方は注目してもらった方がいいんじゃないですか(笑)」

– ラグビーをしている子どもたちへメッセージをお願いします。

「ラグビーをすると人間力が身につくと思うんです。結果として勝敗はあるけど、目の前のことに100%で取り組む…そうした結果、僕はこうしてトップリーグにいます。先ずはラグビーを楽しむことを忘れずに頑張ってほしい。続ける人も、続けない人も」

佐野日本大学高等学校 ラグビー部 顧問 藤掛 三男

佐野日大高校に入学した高校1年の時、ラグビーへの愛の炎が点火する。同校には当時ラグビー部がなく、どうしてもラグビーがやりたいと受験をし直し佐野高校へ入学。その後は早稲田大学からワールドへと進み日本代表としても活躍。引退後は高校ラグビーの指導者として逆の道を辿っていく。佐野高校ラグビー部で8年、そして現在佐野日大高校ラグビー部を指導して8年目を迎えている。これは何かの巡り合わせなのだろうか…。

「生徒たちに私が常に言っているのは、ラグビーを通して『人間的に成長する』ということなんです。ラグビー部だから成長できる部分をしっかり持っていないとならないと思います。佐野高校ラグビー部を指導していた頃、三村 勇飛丸が入学してきたんです。すごくいい目をしていて足腰も強く、この子は絶対に強くなるって思ったんですけど、中学時代に野球で挫折したみたいで…自分はそこまでの選手じゃない、自分はできないっていうのを心の中で思っていたみたいなんですよね。こちらが良い選手になると思っていても、成長の度合いというものがあって、心の準備ができていない時は何でそんなに弱気になってるの?って。後に日本代表にまでなる選手であっても、最初はモチベーションが低かったり、ちょっとしたことで気持ちが落ちたりすることがあるんだなって、私もすごく勉強になりました。でも、入学当時は私にタメ口をきいてきましたからね。怒りましたけど(笑)。

今思うと勇飛丸が初めてでしたね『先生、僕どんなことでもするから、何が何でも勝ちたいんです』って言ってきたのは。他にも『先生、体を作りたいので、先生の家で食事合宿とかやりましょう!みんなでラグビーのことを話したいんです』とか。これには妻も大変でしたけど(笑)。こういう心からの声を上げてくれた勇飛丸って凄かったんだなと。その姿勢に仲間たちも自然とついて行きましたからね。

日々キャプテンとして頑張っている勇飛丸に、私が日本代表として対戦した時のウェールズのジャージをプレゼントしたんですよ。そうしたら、勇飛丸自身が日本代表になって、テストマッチのウェールズ戦に出場して…こんなこともあるんだなって。やっぱり嬉しいですよね(笑)。勇飛丸の、成長を続けた前向きな気持ちが、いい出会い、いい運に巡り会わせたんだと思います」

「私が佐野日大高校に指導者として戻った時は、部員3名からのスタートでした。ある時『僕たちも15人制で試合に出たいです』って生徒たちが言ってきて、部員集めを始めたんです。彼らの顔つきが日に日に変わって、前向きな感じになってきて…そういう姿勢になってくると、ラグビーをやりたいって子たちが増えてくるんですよね。結局その年は15人制で出場できたんです。試合には負けましたが、自分たちでチームを作ってきた事に、凄い達成感を感じくれたんです。この時のメンバーが佐野日大の伝統を作ってくれたのかなと思います。私があの時後ろ向きになっていたら、伝統ってできないんだろうなと思いますし、彼らの成長が今に繋がっているんだと思いますね」

佐野高校、佐野日大高校…これは藤掛先生のラグビー愛が引き寄せた良縁なのかも知れない。


※ノーサイド…ラグビーの試合が終わった際に敵味方のサイド(区別)が無くなり、お互いの健闘を讃え合うこと。ラグビーにおいて試合終了(フルタイム)のこと。